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コラム
 <2003年45号(夏号)>
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生家の記憶(夏) 前会長 多田 紘司

[徒然草抜粋]「家の造りようは夏を旨とすべし。冬はいかなる所にも住まる。 暑き頃わろき住居は堪へ難き事なり。」

私は、いま可動堰騒動で有名を馳せている徳島県吉野川を河口から20kmほど遡った農村に生まれた。ここ20〜30年の間に付近の民家は全て建て替えられ、町も合併によって市に変ろうとする今、昔の面影は小学校の楠の木と八幡神社くらいにしか残っていない。当時は、民家の約半数が「わら葺屋根」で、私の生家もその中のひとつであった。
母屋と言ってもまっ黒に日焼けしたその大屋根と庇部分のちょっと乱れた瓦の並びは、隣接する納屋の瓦屋根と漆喰壁に比べてむしろ貧相に見えた。

一方室内は、天井に露出した太い松丸太の梁と黒光りする天井板がその見えない小屋裏の様をいやが上にも秘密めいて見せて、子供心には恐怖すら覚えさせるものであったが、兼好法師の言を待つまでもなく、昼なお暗いそのたたずまいは、夏の夜も比較的過し易いものであったと記憶する。尤も、その頃の私は今と違って充分に熟睡できる体力があったということかも知れないが、冷房はおろか、冷蔵庫も扇風機もなかった時代にも夜風をちょっと通しておくだけで「寝冷え」対策が実際に必要だった。ただ困ったのは虫害。直接の被害は蚊帳で防げたものの、カメ虫は昔も今と同じ臭いを発したし、蚊帳にからみついた脚を引っ剥すにはコガネ虫は強敵だった。だから、毎朝のはき掃除は、必要というよりも絶対に欠かせない作業のひとつであった。

兼好法師が徒然草を著した14世紀の京都がどのような気候であったか知る由もないが、今も言う“夏暑くて冬寒い”そしてそれが当時はもっと厳しかったとしても、それだけでこの断定はいかにも腑に落ちにくい。特に夏は、単純に高温多湿対策としての家の造り方だけを言っているのではなくて、夏期特有の害虫や小動物の被害、中でもそれに起因するとされる「食あたり」や「はやり病」への心構えに視点を据えての言だったのではなかろうか。

蚊やハエは言うに及ばず、ノミやシラミから、はてはネズミや蛇にいたるまで指を折って数えて見ればすぐにも十指をこえてしまう。これらのうす気味悪くてうんざりする生き物は、現代よりもはるかに多く人々の生活の周辺を抜扈していたに違いない。
また、徒然草が「深き水は涼しげなし。浅くて流れたる遥かにすずし」と続くのを見れば、下・排水の処理にも苦慮していたことが窺える。

私の生家も実はそうだった。彼の記していることの意味は、暑さと共にあるいろんな自然界の営みがはなはだ不都合で不快であるが故に、それに対処する生活様式を提言しているのであって、決して住宅の構・工法を指南している訳ではないのだろう。そうでなければ、東北・北海道は言うに及ばず、京都に近い日本海側で厳しくて長い冬とたたかう人々にはとうてい納得できる言葉ではないと思うのだが…。

 
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